すずめの戸締り感想

すずめの戸締り感想

 

 

遅ればせながら見てきました。戸締りしました。

 

見た直後の興奮のまま、Twitterでつらつらと感想をつぶやきそうにもなったのですが、短文ではとてもまとめきれそうにないので、ひっっっっさしぶりにブログかいてます。いつか2回目を見るにあたっての、自分宛のメモみたいなものなのですが、読みにくわりにガッツリネタバレなので、まだ見てない方はここで戻られてください!そして考察でもなんでもないただの感想なので、ご注意ください!

 

以下より〈はじめに〉〈感想本編〉〈おわりに〉の3つのまとまりになっています。感想ちゃちゃっと読みたい方はそこまで飛ばしてくださいね。

 

 

 

 

〈はじめに〉

 

数年前からずっと楽しみにしてきた監督の最新作。しかも応援しているSixTONESのわれらが()北斗くんが出るという、私にとっては最高のサプライズ。楽しみの2乗。

1回目の映画体験を大事にしたくて、できるだけ前情報は見ないように、先に見られた方の感想も、できるだけ目に触れないようにしていました。

しかし人気監督の最新作ともあってか、街中や会社などあちこちで話題にあがってるもんだから、情報から逃げるのにホント苦労しました。何度SixTONEScmしているイヤホンのノイキャン機能に危機を救ってもらったことか…(はよ見に行け)

 

努力の甲斐もあり()、そんな私が映画館に行くまでに持っていた情報は、せいぜい「なんか扉?を閉じるっぽい」「めずらしく明らかに浮世離れした雰囲気の男の人がおる。この声を北斗くんがやるんだな。」「舞台はは廃墟と監督お得意の水が綺麗なところかな?」って感じですかね。

それと詳細までは読まなかったのですが、警報音に関する注意喚起がされているのは目にしたので、『君の名は。』や『天気の子』と同じように自然災害が物語の重要なファクターなんだろうなってこと。でも新海さんの作品であれば、まあ「超常現象的」なそういう表現はあるだろうなと。そこはさらっと流していました。

 

いざ映画館へ!

 

全然関係ない話なんですけど、お供はミルクティーにしました。

喉乾いてたのにSサイズしかなくて、ちょっと失敗したかな〜とか思いつつ、前々から予約していた特等席に着席。

BGMが鳴った瞬間にシアターの空気がザッと変わって……

気がづいた頃にはエンドロールが流れていました。あっという間でした。

ずいぶんと見入ってたみたいで、少ないと思ってたミルクティーはほとんど残ったまま、氷が溶けてすっかり薄くなってました。ちょうどよかったね。

 

薄っぺらい表現で申し訳ないのですが、端的に感想を言うとエンターテインメントとして素晴らしい作品だったと思います。ロードムービーであり、ロマンスでありファンタジーであり(ここではあえて「ファンタジー」という表現をします)

でも『君の名は。』や『天気の子』とは、見終わった時の感覚が明らかに違っていて…

このブログを書きはじめたのは、まず友達とカフェで感想を語り合うみたいにお喋りしたい!と思ったということありますがもうひとつ、すぐに折り合いを付けられなかった観賞後のあの感覚について自分なりに整理をしたかったのです。

 

前置きが長くなりましたが、ここからが感想本編です。

作者の意図と逸れてしまっているところや、浅い部分もあるかと思います。

そう感じた人もいるんだな〜、くらいでゆるーく読んでいただけるとありがたいです!

誤字脱字ほか、文章が拙い部分も多々あるかと思いますが、どうかご容赦ください。

 

 

 

 

〈感想本編〉

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1.鈴芽ちゃんというヒロイン

2.鈴芽ちゃんと草太さん

3.叔母の環さんという存在

4.みんな大好き芹澤くん

5.超常現象

6.想像すること

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1.鈴芽ちゃんというヒロイン

 

この物語は鈴芽ちゃんと草太さんの壮大なラブストーリーでもあるとは思うのですが、それだけではなくて、鈴芽ちゃんが色んな人と交流することで、自分が愛される大切な1人の人間であることを再確認していく、祈りと希望の物語だったと思います。

映画を見るわたしは、鈴芽ちゃん視点で物語を眺めつつも、時に環さんになったり、芹澤くんになったり、描かれていなかったその他大勢の1人になりながら、映画を楽しみました。

 

 

本作主人公の鈴芽ちゃん。

とても真っ直ぐな女の子でした。吹き込まれた原さんの澄み切った瑞々しい声が、純朴な部分をさらにグッと引き立てていたと思いますステキ

鈴芽ちゃんが住んでるところは山をかかえる港町なのかな。森深いところに住んでいたり、どことなく『君の名は。』の三葉ちゃんを重ねてしまいます。

自室で寝返りを打つシーンや自転車を走らせるシーン、髪を結ぶシーンなどは、あえて過去作を意識して描かれていると思うのですが、そういったところを見つけていくのも、監督からの宝探しの挑戦状みたいで楽しみのひとつですよね。フェリーが出るシーンも、思わず天気の子の冒頭のドキドキ感を思い出しました。

 

ちょっと話が逸れてしまったので、鈴芽ちゃんについて話を戻します。

あらためて見返すと、キャラデザはかなり一般化された、普通のかわいらしい活発な少女といった感じですよね。いつも気にかけてくれる家族がいて、学校には友達がいて、地域の人たちにも馴染んでいて、カッコいい男の人に目を奪われたり、同年代の女の子との恋話に花を咲かせたりする様子や、保護者との何気ないやりとりなどは、まさに健やかに育った普通の女の子。

しかし話が進むにつれ、何か特別な事情を抱えている子なんだなとほんのり見えてきてそして自分の身を省みない危うさがどんどん目立ってくるようになります。一番最初にそれを感じたのは、最初の後ろ戸を閉めるシーンです。細かいセリフまでは覚えていないのですが、草太さんが「死ぬのが怖くないのか」と問いかけ、すぐに「怖くない!」と答える場面があったと思います。私はこれを聞いたとき、「この状況で急に芯に迫った質問されて、すぐにそんなハッキリ言えるか!?」とびっくりしちゃったんですが、のどかな町で育った普通の女の子で、そりゃ死ぬことなんて普通あんまり考えないだろうし、死が身近でないがゆえに、怖くないこともあるよなと一旦自分を納得させました。

あるじゃないですか。巷にある冒険物語の序盤で「オレ、死ぬの怖くないんだよね」みたいなことを言った強がりキャラが、絶体絶命になった瞬間にやっと自分の命の重みを実感して「死にたくない!」と必死になるシーン。この鈴芽ちゃんもそういうところがあって、これから考え方についても変わっていくのかなと物語の先を予想してみたり

でも、同時に鈴芽ちゃんの声からは、死を軽く見ている人にはない説得力も感じてしまって、妙に気負わされたのも覚えてます。「この子、本当に死が怖くないのかもしれない。」って思ってしまったんです。実際に、話が進んでいくと鈴芽ちゃんが勢いで「死は怖くない」と言ったのではなく、すでに彼女は死と立ち会ったうえで「死は怖くない」という結論を出していたことが見えてきます。いや、ここはもしかしたら見る人によって解釈が大きく変わるところなのかもしれませんね。実際話が進むにつれて鈴芽ちゃんの死に対する感情は変わっていきますし。ここは次の章でまた語ります。

その部分は元々の鈴芽ちゃんの性質というよりは、小さい頃の経験、生い立ちによるものだったんじゃないかと思います。幼い子供にとって世界そのものである母を亡くし、身一つ(と椅子)で住む場所を移すことになるということは、世界が真っ暗になってひっくり返り、一人きりで違う世界に来てしまったように感じたことでしょう。…どう私が頭を捻っても言葉が薄く軽くなってしまいますが、とにかく筆舌に尽くしがたい心境だったと思います。その心の深くにある暗い影が、鈴芽ちゃんの捕まえておかないと何処かへ行ってしまいそうな、そういう“普通ではない”危うさへと繋がっている気がしました。もしもは無いのですが、もしお母さんがと考えたときに、また少し違う鈴芽ちゃんになっていたんじゃないかなと思います。

普通なようでいてそうではない、そんな健気な「普通の」女の子。それが鈴芽ちゃんに抱いた感想です。

 

 

 

 

 

2.鈴芽ちゃんと草太さん

 

普通の高校生である鈴芽ちゃんと、閉じ師として全国を旅する草太さん。

住む世界が違った2人が、旅をしていく中で次第に心の距離が縮まっていき、かけがえのない存在になっていく様は、微笑ましく清らかで美しかったです。

序盤の展開をあらためて鈴芽ちゃん視点から見ると、自分が要石を外してしまった結果、草太さんが怪我を負い、椅子に変えられしまったという状況なので、そりゃほっとけないですよね。一生懸命どうにかしようと奮闘します。草太さんから見ると、扉を見つけるのが遅かった自分の力不足のために、一般人の女の子を巻き込んでしまったということになるので、こっちも気が気じゃないでしょう。

九州から四国へのフェリーに乗ってからしばらくは、鈴芽ちゃんの身を案じて早く帰るように諭していましたね。しかし旅が進んでいくと、むしろ草太さんから鈴芽ちゃんの手を引くように(椅子なので手は引けませんが)「先へ進もう!」と声をかけるようになっていきました。

鈴芽ちゃんのことを、ただの巻き込んでしまった一般人じゃなく、旅をするパートナー、大切な人へと少しづつ変わっていき、お互いに生死観をゆるがす存在となっていくところがロマンチックでした。

 

この映画には叙述トリックと言ったらいいんでしょうか、物語が進んでいくにつれて、それまでの認識が間違っていたことをさりげなく気づかせてくるシーンがいくつか存在します。

ここで「閉じ師」という職業に関してお話させてください。

東京までの旅の道中だけでも、多くの人々のため、いろんな人に心配をかけながらも、自らの身の危険に晒して、人知れず扉を閉じてきているわけです。閉じ師が背負う運命が、いかに重く孤独なものかというのは推し量れます。私はそれもあってか、鈴芽ちゃんと同じように、この世界の現代日本では「閉じ師」という運命を背負っている人たちがいるんだなそういうもんなんだな、と自然と受け入れ納得をしてしまっていました。

 

そんな中、閉じ師の草太さんは都内に住む大学生であるということがわかります。

一見すると本当にうつつの人か?と思わせる雰囲気をまとった人でしたが、東京の電車もなんのその、普通に都会人でしたね。ひそかに私は、この人は人間じゃないかもな、とすら思ってましたね。ちがいました。

すぎる使命を全うする、特別な存在だと思っていた人物は、教師を志して勉学に励む「普通の」若者にすぎないことを、私たちは後から示されるわけです。しかもフラッと現れた友人代表の芹澤くんが、こりゃまたどっかのキャンパスに絶妙にいそうな感じで、さらに草太くんのキャンパスライフを想像させるんですわ

ここから妄想入ります。草太くん、教育課程の講義を取っていて学業忙しいだろうな何かに興味があっても、閉じ師やってることを考えると、多分サークル入る時間はないなギリ、ロードバイクで旅行するサークルとかいや無理か。大学には友達あまりいないかもな想像だけど芹澤くんとは講義が被ってるだけっぽいし。でもたまに学食とかで一緒にご飯食べたりはしてそうだな。いや〜〜でも途中でミミズが動き出して「すまない!」とか言って、ぽかーんと口開けた芹澤くんと、食べかけのお膳を残して大学を駆け飛び出したりしてるでしょ。とか色々と考えるわけです。普通に生きるのがままならねぇ

は「本当に大事な使命は知られない方がいい(ニュアンス)」と、悟りを開ききった台詞を言っていましたがほんまかね。もっと穏やかに生きてくれーと思ってしまうのエゴだろうか。エゴかもしれない。

妄想はこのへんまでにしといて、この章のはじめで2人を「普通の女の子」と「浮世離れした閉じ師の青年」という対比の形で並べました。確かにそういう側面もあるとは思いますが、そもそもこの2人はどこにでもいる、前途ある2人の若者に過ぎなかったわけです。そのことを反芻するたび、私が重たい使命を背負う人間がいることに納得するために、勝手に特別な人だと祭り上げてしまっていたことに、罪悪感のようなものを感じざるを得なくなりグェというカエルのような断末魔をあげるしかなくなるわけですね。

 

この流れで草太さんへの懺悔をもう一個します。

どこかと言うと、彼が要石になってしまうシーンです。

これも記憶ベースで正確なセリフではないかと思うのですが、鈴芽ちゃんの前でみるみるうちに体が固まっていき「それでも君とあえて!」と言いかけたところで、完全に要石に変わってしまうというシーンがありました。

自分の意識が遠のいていって、自分が無機質なものへと変わっていく恐怖ってどんなものなんでしょうかね。想像を絶するものだといことは分かります。

それなのに、「それでも君と会えて(のような台詞)」の後に呑みこまれてしまった言葉は「よかった。」だと思ってしまったんです。辛いことも沢山あって、これから夢もあったけど、大切と思える人にも出会えて、それで十分だと、草太さんはそう思ってくれているはずだと、そう私は思ってしまっていたんですね。

そして終盤で、私の想像が概ね合っていて、そして決定的に違っていたことを見せつけられるわけです。彼は要石になっていくとき、もっと生きたかったと叫んでいました。あたりまえですよね、夢も希望もたくさん抱えた1人の若者だったんですから。

ほんの少し前に、彼がただの大学生に過ぎないことを知って、背負っている大きすぎる運命を哀れんだ、その舌の根が乾かぬうちに、また私は彼を聖人君子にしてしまいました。要石になったという辛い現実が変わらない以上、彼が人間を超越した感覚を持って、納得してくれていた方が、私の精神衛生上いいですからね。

「こうであってくれ!」という心の少し深いところにある願いが、自然と「こうであるはずだ!」と相手を決めつけてしまうことをあらためて実感して、ヒヤッとした瞬間でした。すまん

でも鈴芽ちゃんに会っていない世界線の草太さんは、ここまで瞬時に生きたいと思えていただろうかと考えたりもします。

 

 

ここで鈴芽ちゃんと草太さんの2人の話に戻しますね。

鈴芽ちゃんと草太さん、普通であって普通じゃない2人、ちょっと似たもの同士のようにも思えます。

ここまで色々語ってきたんですが、鈴芽ちゃんは大事な人のために自分の身を省みない勇敢さがありますし、草太さんは自分の優先順位を下げて、世のために動いてきた人です。自己犠牲的とまで言ってしまうと、ちょっと表現が強すぎるかなとも思うんですが、そういった面が強めに持っている2人だと思います。

「自分の扱いが雑」とはよく言ったもので、作中では芹澤くんからこれまでの草太さんに向けられた言葉でしたが、思い返すとこれは鈴芽ちゃんにも当てはまった言葉だったんじゃないでしょうか。

そんな2人が引き合わされて、お互いのことを大切に思い、そして離れがたい存在へと変わっていきます。人と人とが出会って、お互いが生きる理由になっていくところが、希望の物語。草太さんは鈴芽ちゃんにとっての要石になったんだと思います。

願わくば、お互いがお互いの、この世で生きる重しとなってほしい。

 

 

 

 

3.叔母の環さんという存在

 

環さん、カッコよくて素敵な女性でしたね。

最初は疑問もなくお母さんなんだと思ってました。それほど「お母さん」をしていたんだと思います。環さんに対する感情は見る人の年齢や立場によって、けっこう変わってきそうですよね。

 

新海さんの最近の3作では、状況はそれぞれ違うものの、いずれも保護者に秘密で遠いところへ行く若者が描かれています。

君の名は。』を見たとき、私は学生だったので「親に見つかったらって思うとめちゃくちゃ怖いな。当然心配するだろうしな。言い訳とかどうしよう。」という子ども目線の感覚で見ていたような気がします。

天気の子』のときは、帆高くんの親はさぞ心配してるんじゃないかと序盤こそ気にかかっていたんですが、2人の少年少女の青くてエネルギッシュなラブストーリーを前に、いつのまにか親への関心は何処かへいっていました。

 

今作では、話の中でだいぶ環さんにスポットライトが当たっていたことと、そして何より私が歳をとったからだと思うんですが、保護者視点で展開を見守っていたシーンが多かったような気がします。

我が子同然の鈴芽ちゃんからあんなLINEが来たら気が気じゃないよな仕事とか絶対に手がつかないよな〜とか。帰ってきて包帯を使った形跡がある救急箱を見つけたときは肝が冷えただろうなとか。女手一人で姪を育てようと決意したとして、相当高級取りじゃないと暮らしぶりはだいぶ変わるよなぁ。とか。

でも鈴芽ちゃんの気持ちに似た感情も、まだ覚えてはいるんですよね。親が自分のことを大切に思っていて、気にかけて心配しているのもよく分かっていて、無下には出来ないし悲しませたくもないけれど、それを重たく感じてしまう気持ち。

もし私が生まれてなかったら親はどんな生活してるんだろうな、もっと好きなこと出来てたんじゃないかな、という「自分がいない世界線」の親を考えたことが、私にもありました。ちょっと懐しい。

鈴芽ちゃんを引き取っていない場合、環さんが全く別の家庭を築いている可能性は決して低くないですし、鈴芽ちゃんと環さんの家族の形は独特なところがあるので、鈴芽ちゃんは優しいが故に人知れず思い詰めていたでしょうね。

環さんもそのことは肌感覚で分かってたんじゃないかな。

サービスエリアで環さんと鈴芽ちゃんが言い合うシーンがありました。神に憑かれた状況ではありましたが、本心の部分も混じっていたと思います。環さんは環さんで、鈴芽ちゃんを引き取っていなかった未来に思いを馳せた瞬間もあったことでしょう。

 

後半での鈴芽ちゃんを自転車の後ろに乗せて必死に自転車を漕ぐシーン。

環さんがこれまでを振り返って、良い感情ばかりでは無かったことに触れつつも「でもそれだけじゃないの!」と、鈴芽ちゃんが心から大切な存在であることを、真っ直ぐ強く伝えていました。

鈴芽ちゃんも「わかってるよ」と真っ直ぐ返します。個人的に指折りの好きなシーンでした。あんなに真っ直ぐ人と向き合って思いを伝えて、そして受け止められるだろうか、と自分に置き換えて考えたりするんですが、ほんと難しいですよね。

特殊な形ではあったものの、2人は間違いなく思い合う家族だったと思います。この先も幸多からんことを!

 

 

 

 

 

4.みんな大好き芹澤くん

 

いやー、ずるいですよこのキャラ。サラッと物語に入ってきて付かず離れずいいところにいるもん。佳境の激重の展開をあそこまで、思い詰めすぎず見守れたのは間違いなく彼のおかげでした。ありがとう芹澤くん。こんなんみんな好きでしょ(言い過ぎ)。私は好きです(正直)

 

まず彼が登場したときに思ったことは、大学生やってる草太さんに芹澤くんという友人がいて本当に良かったということ。2人の住む世界があまりに違いそう過ぎて、ちゃんと会話できるのか?とちょっと不安には思いましたが。すぐにこの子は友達思いだな〜っ、何だかんだ草太くんにいい感じに合わせてくれてそうだな、と思い直しました。見かけだけで判断してごめんね芹澤。

一見すると、いかにも現代の若者といった感じで、派手好きでチャラくて軽そう(ごめん)。そしてとても友人思いでしたね。友人が自分自身のことではない何かを優先して、自分の夢をおざなりにしたことに、親身になって怒れることってそうそうない。

鈴芽ちゃんと環さんのやり取りを見て「闇が深い」とげんなりしつつも、どこかサッパリ飄々としていて、無闇に首を突っ込まず、無茶な旅には最後まで付き合ってくれる。

他人の事情をある程度察しながらも、同情しすぎることなく、困ってそうだから手を貸す、という彼のスタンスは「他人」のあり方のロールモデルのひとつなのかもしれないなと思いました。

 

いやでも2万を借りる人間が、お気に入りの車をお釈迦にされて笑ってられるところとかほんと優しいな。俺は優しい男だぜアピールをしたくないからか、旅を同行する理由づけに、借りてない2万の取り立てをでっちあげるあたり、いじらしいなー。

この男、教師になるのかすごいな。え、すごいな。抜き打ちの服装検査とか事前にそれとなく教えてくれそう。

 

 

 

 

5.超常現象

 

君の名は。」では隕石の落下し、「天気の子」では街が沈むほどの大雨が降りここ数作の新海さんの作品では、いづれも異次元レベルの自然現象が扱われてきました。

映画館の大きなスクリーンで見ると、本当に圧倒的なスケールなんですよね。

星が降る様子や、尋常じゃない雨が打ちつける描写は、畏怖さえ感じるほど。不思議なんですけど、怖いなと思いつつも、監督特有の画があまりに夢夢しく綺麗で「時に自然はあまりに一方的だけれど、美しいな」と毎回感じていました。

個人的に、特に大雨に対しては苦い思いがあるのですが、それでも『天気の子』を見た最後には「雨が美しかったな」というところに着地できていて、そういう説得力のある美麗な映像づくりをされいたんだと思います。

自然の残酷さに反して、登場人物の生き様を彩る舞台にさえ思えるほど、美しい自然現象だったんです。

 

今回の自然現象は地震。後ろ戸からミミズが出てきて天に伸び、地面に倒れることで大地が揺れる過去2作の超常現象に比べて、構造自体はよりファンタジックなんじゃないでしょうか。

形容し難い赤黒い物体が日常に突如現れる場面は、あまりにも現実味がなく、神秘的というよりグロテスク、一貫しておぞましく描かれていたと思います。街を潰した巨大な隕石や、東京を飲み込むほどのバケツをひっくり返したような大雨より、個人的には気持ちが悪く、純粋な恐怖を感じました。

監督がその気になれば、アレをもっと強く荒々しくも「美しく」描けたんじゃないかなと思います。きっとそうしたくなかったんだろうなぁと。私は監督ではないので真相は知りませんが。

 

要石については、ダイジンの存在だったり、もう一つの要石のことだったり、いろいろ考えて謎解きのしがいがありそうですよね。きっとこのあたりは沢山考察が出ていると思うので、後でいろいろ読んでみたいとおもいます。

個人的にはダイジンはじめ、要石たちが要石になる前はどういう存在だったか気になるところです。閉じ師だったのか、普通に暮らしていた人だったのか、要石として生まれた存在なのかはたまたもっと別の何かなのか。

 

これまでの作品と決定的に違うなと思った点がもう一つあって、それは「実際にあった大きな出来事を明確に作品に出す。」ということです。

鈴芽ちゃんが幼い頃に大変な出来事に巻き込まれているということは、冒頭ですでに示されていることなのですが、それが現実のあの出来事だというのは後半になって見えてきます。鈴芽ちゃんが健やかに育ちながらも、内側に抱え続けているものがあり、辿っていった先には、私が想像していたキラキラした隕石でも大水のフィクションではなく、現実があって。あえて持ち前の美しさは残しつつも、風景を色鮮やかに描きすぎないようにされていたようにも感じます。

フィクションである、と思わず顔を逸らしてに逃げそうになったところを、ぐっと掴まれて「どうか目を背けないでほしい」と作品に言われた瞬間でした。

 

 

 

 

6.想像すること 

 

物語全編を通じて「想像すること」がキーワードだったなと思います。

 

日常から隔絶されてしまったいくつもの廃墟に、取り残された後ろ戸。

昔はそこで沢山の人が笑ったり泣いたりして日常を送っていたというのは、考えてみると当然の話ではありますがそもそも足を踏み入れないので、普段は意識をするすべもないのかもしれません。

そんな後ろ戸を閉める際に、草太さんは必ず、そこで生きていた人たちを想像するように鈴芽ちゃんに促します。

 

置いてけぼりにされたものがこの世界には沢山あるんだと思うのですが、それと向き合う最初の一歩が「想像すること」だということを、あらためて感じたりしました。

こうやって文字にすると「そんなの当たり前のことじゃん!」って感じですが、自分を振り返ると、日常に追われてなんとなく毎日をこなしていっていると、想像するということは後に後に回しがちなのかなと思います。

遠くのものを自分から思いを馳せるどころか、目の前にあることに対しても、想像することを諦めがちなところもあります。そんな私のような人に向けて、「どうか想像することを、放棄しないでほしい」という一貫した監督からの願いが込められていたのではないでしょうか。

 

ダイジンが「鈴芽ちゃんから好かれている」と勘違いをしていて、同時に鈴芽ちゃんは、ダイジンが自分を陥れようとしていると思い込んでいたところ。

心から心配する環さんに、鈴芽ちゃんが何も説明できないとこと。

扉の向こうのあの世が、鈴芽ちゃんには綺麗で幻想的な場所に見え、草太さんにはそうは見えていなかったこと。

鈴芽ちゃんの故郷が、芹澤くんにはただただ美しい風景に移り、鈴芽ちゃんにはまったくそうは思えなかったこと。

どれも日常にありふれた状況に置き換えられることで、立場や経験などが違う生き物同士が物事を共有するのは本当に難しいなぁとあらためて示された気がします。

このギャップを抱えながらもなんとかやっていくには、想像力が大事なんだよなと。

 

 

 

 

〈おわりに〉

 

ここまでとりとめのない感想を読んでくださってありがとうございます。

なんだか後半は言葉足らずな畏まった感じになってしまいましたね。

 

かつての“知る人ぞ知る”名監督が、『君の名は。』と『天気の子』を通じてヒットメーカーの地位を確立し、多くのひとに作品が届くことを理解されたうえで、あえて強めにメッセージを込めた作品だったと思います。

でも説教のように問いただしてくるのではなくて、この作品は見に来た人が前も向けるように、背中を押してくれているような気がします。

みんな沢山すれ違いながらも、前を向いて進んでいったように。

 

そして映画としてのエンターテイメントを心から楽しんだ私みたいな人間に、物語を振り返って、そして現実のことをいろいろ考える「きっかけ」をくれたんだと思います。

 

ここまであれやこれやと書いてきましたが、一番伝えたいところは最後のシーンに集約されていて、「行ってきます」「いってらっしゃい」が取り残されることなく、「ただいま」「おかえりなさい」に繋がって、また次の「行ってきます」へとずっと続いていってほしい、という当たり前の日常への願いなのかな。

 

全部書ききれた訳ではないのですが、1回目で見た感覚はなんとなく整理できたので、取りこぼしているたくさんのところをまた拾いに行けたらいいなと思ってます!

これから特典の冊子だったり、パンフレットを読んでみます。

それでもしかしたら感想も大きく変わってくるかもしれません。

 

2回目見に行くのが楽しみ、これにて一旦完!ありがとうございました!